コルテバ・アグリサイエンス 2019
2019年6月1日、コルテバ・アグリサイエンスは、ダウ・デュポンから分離し、農業に特化した独立した企業となる。
コルテバ・アグリサイエンスは、農業における3つのリーディングカンパニー、ダウ、デュポンおよびパイオニアの優れた歴史と業績をベースに設立。
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2019年6月1日、コルテバ・アグリサイエンスは、ダウ・デュポンから分離し、農業に特化した独立した企業となる。
ダウ・デュポンの農業関連部門、コルテバ・アグリサイエンスのブランドを発表。
ダウとデュポンは、両社が合併し、その後3つの独立した会社に分割することで最終的に合意したと発表。
デュポンは、栄養と健康および産業バイオサイエンスで世界をリードする企業、ダニスコを買収。
パイオニアは、中国でトウモロコシの種子を販売するための合弁事業を開始
デュポン、パイオニアを完全子会社化。
ダウは、ダウ・エランコを完全子会社化し、社名をダウ・アグロサイエンスに変更。
パイオニアは、トウモロコシのゲノム研究を始めた最初の企業。
デュポン ダウ エラストマーは、1996年にデュポンとダウ・ケミカル社の合弁事業としてビジネス活動を開始。
パイオニアは北米で大豆のNo. 1 ブランドになる。
ダウとイーライ・リリーは、農業用製品を製造する合弁会社、ダウ・エランコを設立。
チャールズ J. ペダーセンは、デュポン社での功績であるクラウンエーテルの合成方法に関する研究論文でノーベル化学賞を受賞。
続きを読む1987 チャールズJ.ペダーセン
デュポンで唯一のノーベル賞受賞者であるチャールズJ.ペダーセンは、クラウンエーテルの合成方法を説明した功績により、ノーベル化学賞を受賞。ペダーセンは1927年にデュポンで働き始め、退職するまでの42年間にわたり同社に勤務。彼は1927年にマサチューセッツ工科大学(MIT)で有機化学の修士号を取得し、ニュージャージー州ディープウォーターのチェンバーズ ワークス ジャクソン研究所でデュポンでのキャリアをスタート。ペダーセン の初期の成果の1つは、「アンチノック」ガソリン添加剤であるテトラエチル鉛の製造プロセスの改善。ガソリンに追加されたテトラエチル鉛は、ノックを減らし、パフォーマンスを向上。彼はまた、ガソリン、オイル、ゴム中の重金属の劣化効果に対抗する最初の「不活性化剤」を発見。 10年間に抗酸化物質およびその他の製品に関する約30件の特許を申請。 1946年、ペダーセンは研究員に昇進し、その後彼自身の研究プロジェクトを推進。 1959年、ペダーセンは実験ステーションに移り、そこでエラストマー部門に加わる。ペダーセン はここでクラウンエーテルを発見。
デュポンは、石油会社コノコを買収。当時、史上最大の企業合併。
ダウは、現在世界で最も広く使用されている殺虫剤の1つであるLorsban®殺虫剤を上市。
同社はパイオニア・ハイブレッド インターナショナル社に社名を変更し、別の海外子会社を設立。
デュポンはランネート メソミル殺虫剤を発売、これは最も成功した作物保護製品のひとつとなる。
ダウはジップロック®バッグのテストマーケティングを開始。ジップロックはS.C. Johnson&Sonの商標。
Stephanie L. Kwolekは、最初の液晶ポリマーを開発、ケブラー®ブランド繊維の基礎となる。
ダウの年間売上高が10億ドルを超える。
ライクラブランドのエラスタン繊維は、優れた合成エラストマー繊維を製造するための20年にわたる研究の集大成。
ライクラはインビスタの登録商標。
ダウ、家庭用のサランラップを発売。
サランラップとロゴは、SCジョンソン社の商標。
北米でパイオニアブランドのトウモロコシの種子の年間売上が100万ユニットの大台を超える。
カナダでパイオニアハイブレッドコーンカンパニーを設立。
ダウの最初の事業拡大が、Dow Chemical Canada、Ltd.から始まる
パイオニアのヘンリー・ウォレスがフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の下で米国副大統領に選出される。
社名をパイオニア・ハイブレッド・コーンカンパニーに変更。
ダウの最初の女性研究者であるシルビア・ステーサーは、油井処理の解明に貢献する5つの特許を出願。
続きを読む1929年、ダウは最初の女性研究者であるシルビア・ステーサーを雇用。
ダウは最初の女性研究者であるシルビア・ステーサーを雇用。1929年、シルビア・ステーサー は、ダウ・ケミカルカンパニーの最初の女性のリサーチ・サイエンティストになることにより科学技術の世界で有名となる。シルビア・ゲルゲンは、1901年7月18日にニューヨーク州バッファローで誕生。ダウに雇用された最初の女性で博士号を持つ化学者。彼女は、1923年にバッファロー大学、1928年にアイオワ大学で学位を取得。彼女の最初の大きな成功は、研究所長のジョン.J.グレーブとの共同研究における油井処理用の酸抑制剤の開発。彼女の5つの特許は、このプロセスに不可欠でダウのダウエル事業部の基礎となった。
デュポンがGrasselli Chemical Companyを買収。 Grasselliは、無機および有機殺虫剤の長年の製造メーカー。
創業者のヘンリーA.ウォレスは、ハイブレッドコーンカンパニーを立ち上げ、生産者が交配種トウモロコシを受容する新しい時代を切り開く。
続きを読む1926ヘンリーA.ウォレスがHi-Bred Corn Companyを設立。
デュポン・パイオニアの創設者であるヘンリーA.ウォレスは、交配種トウモロコシの商品化と生産者受容において最も重要な人物である。彼は、交配種トウモロコシの栽培によって得られる計り知れない機会を最初に認識した世界で数少ない人々の1人。ウォレスは高校でトウモロコシの実験を始め、高い収量を生み出す交配種を開発することを目標にする。 16歳の時、彼は外観の美しさが劣るトウモロコシと賞を獲得した見栄えの良いウモロコシの比較圃場試験を実施。結果的に収量とトウモロコシの穂の外観との間には相関関係がないことを示し、当時の型にはまった考え方に挑戦した。
ウォレスはアイオワ州立大学に入学し、1910年に卒業。大学在学中は、比較的新しい科学である遺伝学に魅了される。卒業後ウォレスはトウモロコシの育種実験に取り組み始める。1920年にコネチカット農業試験場のエドワード・イーストとドナルド・ジョーンズを訪問し、交配種トウモロコシの育種を始める。数学好きなウォレスは、独学で統計学を学び、自身の実験に応用した。 1923年にはCopper Crossと名付けた高収量の交配種の生産に成功。 それは、1924年にアイオワ州が実施したアイオワ・コーンイールド・コンテストで金メダルを獲得した最初の交配種トウモロコシとなった。
ダウは、米国の農場の価値が300億ドルに上昇した時、最初の農業用製品の生産を開始。
電気化学の先駆者であり不沈の楽観主義者であるH.H.「クレイジーダウ」ダウは、歴史を書き換える単一製品の新興企業、ダウ・ケミカル・カンパニーを設立。
続きを読む1897年 ダウ・ケミカル・カンパニー設立
業界の先駆者であり、恐れを知らない起業家。 1897年、ダウ・ケミカル・カンパニーは、業界の先駆者であるH.H.ダウによって設立された単一製品の新興企業としてスタート。ダウは電気化学の先駆者で1891年に電流を使って臭化物を塩水から分離し、最初の商業的成功を収めた。彼は3つの会社をスタートしたが、最初の会社は破産、2番目の会社では失脚。3番目のダウ・ケミカル・カンパニーでは、ミシガン州ミッドランドでの創業以来、生き残りをかけて苦闘した。彼の不屈の楽観主義は、彼を「クレイジーダウ」と名付けた人々の批判に耐える助けとなった。ダウの「改善」精神は、彼が設立した会社で1世紀以上にわたり息づいている。
彼の最初の火薬工場と共に、E.I.デュポンはブランディワイン川のほとりに彼の名前を冠した象徴的な会社を設立。
続きを読む1802 E.I.デュポン
エリュテール・イレネー(E.I.)デュ・ポン(1771-1834)は、1802年7月19日に彼の名前を冠した会社で事業を開始。彼は有名な化学者アントワーヌ・ラヴォワジエと高度な火薬製造技術を研究していた。この知識と科学的探究への強い関心を生かし、会社の特徴となった製品品質、製造の洗練度および効率を継続的に向上。彼は高品質、公平性、労働者安全への配慮で評判を得る。 E.I.デュポンは、1780年代の著名な政治経済学者、政府高官、自由貿易の擁護者であったパリの時計職人ピエール・サミュエル・デュポン家に誕生。 14歳で、E.I.は火薬の製造に関する論文を執筆、父親の力添えによりフランスの中央政府機関に入り、そこで有名な化学者アントワーヌ・ラヴォワジエと爆発物の高度な製造技術を研究。 1791年、フランス革命が始まった後、父親の小規模な印刷および出版ビジネスを手伝うために火薬作りを断念。 1797年、暴徒が印刷所を略奪、一時的に投獄された。 1799年後半、一家はアメリカに亡命。1800年1月にアメリカに到着した際、E.I.がもたらしたのは火薬製造の専門知識とフランスの投資家から調達した資金以上のものだった。彼は数年間植物学を学び、科学の進歩と資本と労働の調和のとれた関係について父親と理想を同じくした。E.I.デュポンは1801年に一度だけフランスに戻り、追加資金を調達し最新の火薬製造装置を購入した。彼は1802年7月19日にブランディワイン川沿いに最初の火薬工場を建設。彼の残りの人生は、爆発、洪水、財政的負担、神経質な株主からの圧力、労働争議等の困難の連続であった。
彼の正直さがもたらす個人的な評判と名高い会社の製品は、最終的に成功をもたらしたが、デュポンは決して警戒心を緩めなかった。地域社会の柱であった E.I.は、貧しい人たちの救済、視覚障害者への支援および無償で公的教育などに貢献した。彼はデラウェア州のファーマーズバンクおよび米国の第二銀行の取締役を務めた。発明家であり、独立した科学者でもあった。 E.I.の妻であるソフィー・ダルマス・デュポンが1828年に亡くなる。その3年後にアメリカの画家レンブラント・ピールが描いた絵には、パウダーマンの喪失感と彼の会社に対する絶え間ない心配と緊張の様子が捕らえられていた。 1834年の秋、E.I.はフィラデルフィアで仕事中に心不全で倒れた。翌日10月31日に亡くなり、ブランディワイン沿いの家族墓地に埋葬された。